まずはこのインタビューの主人公の紹介です。アルベルト・プッチとは?
私はとても若い頃に監督を始めました。私が16歳のとき、すでに14歳の子たちのトレーニングを受け持っていました。そこからすべてが始まりました。兵役と大学の最初の数年間のため、小さな中断期間がありましたが、ずっとトレーニングを続けていました。
私の夢はいつもFCバルセロナのカンテラの監督になることでした。私はカンブリスという小さな町の出身で、当時はバルセロナまで100キロという距離が大きな壁となりました。当時、FCバルセロナのカンテラは、バルセロナ市の指導者が中心で、そこにカタルーニャ州の地方の人がいるという構成だったからです。
私はその夢の達成のために、長年努力してきました。カンブリスやロイスの下部組織で監督をしていましたが、いい結果を達成するだけではなく、フットボール選手の育成にも力を入れていました。ある選手は1部リーグに、またある選手はFCバルセロナのユースチームに入りました。その仕事の成果のおかげで、私はFCバルセロナの組織の一員になることができました。
最初は観察者、スカウティングという立場でしたが、少しずつ努力を重ね、FCバルセロナのカンテラの監督になるという夢を叶えたのです。そこからさらに次のステップへ進み、つまりFCバルセロナのラ・マシアの最高責任者になれるとは当然思ってもいませんでした。
私の大きな夢でしたし、この経験は、私のフットボールの育成の指導者、監督としての集大成として大切にしています。
2021シーズンは日本のJ2リーグ、アルビレックス新潟を率いていました。自分の現状をどのように見ていますか?
私は新しい挑戦を好む人間です。私はいつもそうです。FCバルセロナでは上の立場にいた時に、退団することを決めました。今シーズン、アルビレックス新潟では、すばらしいレベルのプレーを実現しています。残念ながら、シーズン後半は決定機をものにできず、上位進出の機会を逃してしまいました。とはいえ、統計的にはすべてのチームに勝っています。ポゼッション率、得点チャンスの数。ですが、シュートの部分では達成できませんした。
その状況下で熟考し、新たな1歩を踏み出すことを決めました。そして新たな挑戦を始める機会を与えられました。それは私のモチベーションとなっています。フットボールの側面において、私たちが求めるスタイルを日本で引き続き導入して行き、新たな挑戦、新たなプロジェクトを進めていきたいです。
日本での仕事、滞在ついてはどう思いますか?
日本ではとても素晴らしい経験をさせてもらっています。指導者としてのキャリアをスタートさせた時、私の夢のひとつは、プロフェッショナルを尊重し、何よりもプロジェクトに沿って仕事を進められる国で仕事をすることでした。
私は、自分が特定のスタイル、トレーニング方法論を持った監督であると考えています。そして、そのスタイルは日本人選手に最も適したスタイルであり、攻撃的で、アグレッシブで、ボール奪取が速く、ボールと共にプレーの強度が高い、勇敢なスタイルです。日本は明確な確固たるスタイルに基づいたプロジェクトを進める監督をサポートし、いっしょにとても我慢強く見守ってくれます。いつも私たちは試合結果次第ですが、スタイルを確立する余裕はあります。私にとって日本はいつもとても魅力的な国です。
FCバルセロナのカンテラの監督、そしてコーディネーターであり、アンス・ファティ、リキ・プッチ、もしくはニコといったインパクトのある選手の獲得にあなたは大きな役割を担い、影響を持っていました。 あなたが指揮したチームで、FCバルセロナのモデルを輸出しようとしたことはありますか?
FCバルセロナでの11年間は、フットボールに対する見方を変えます。カタルーニャ州に住んでいるという事実だけで、ボール扱いが上手いというイメージがありますが、FCバルセロナはその中心にあります。そのダイナミズム、トレーニング方法、そしてその歴史によって、スタイルが身に着きます。
フットボールの輸出というテーマは複雑です。単純にスタイルをコピーするというだけではありません。各選手、チームがそのクオリティを高め、フットボールの言語を理解し、普遍的なプレーの仕方を習得する。このスタイルは、それぞれの国、文化、そして選手に応じてつくることができます。輸出やコピーというは間違ったコンセプトです。厳密なコピーはできません。それぞれの国や文化には独自のアイデアがあります。フットボールの言語を理解する上で役立つためのベースとなる発展したスタイルの構築はできます。
2014年にFCバルセロナを退団し、そして最初にガボンに渡りました。 最初の冒険はどのようなものだったでしょうか? また、なぜこの役割を引き受けようと思ったのでしょうか?
2014年にFCバルセロナを離れるのと決めたのは、いくつかの動機がありました。肉体的な疲労、家族、そして新たな挑戦です。家族といっしょにフットボールを通じて、異文化に触れ、そこで生活をするという世界を巡る冒険を始めようと決めました。
FCバルセロナとの契約を終えてすぐに現れた最初の選択肢がアフリカのガボンに行くというものでした。それは私たちのスタイルを彼らの領域で実践し、彼らといっしょにその哲学とトレーニング方法論を確立することでした。私たちは、共通のプレーアイデアを持つ若いプレーヤーを育成したいと考えました。家族、そしてアフリカに興味のある妻と相談し、人としての経験に重きを置きました。西洋にあるFCバルセロナのような大きな組織で働いていましたが、経済的には貧しくとも、人間的には豊かなコミュニティの一員となりました。私たちの人生の“リセット”を行ったのです。スポーツ面よりも、人間面としての価値に重きを置きました。これらの国で仕事をするのは簡単ではないことを認識しなければなりません。
コルドバ、カリフォルニア、ニューヨーク、そして日本。この長い旅の後、日本で監督として、成熟と安定を手に入れましたか?
ガボンでの滞在期間が終わった時、私にはコルドバCFの下部組織のディクレターという依頼を受けました。私はスペインに住んでいなかったので、外から時々アンダルシア州に行き、組織を管理していました。私の同僚たちはすばらしい仕事をしてくれました。わずか2年で、コルドバCFの下部組織は、アンダルシアで3番目に重要なものとなりました。
その後にアメリカで最もポテンシャルがあるアカデミーのひとつであるカリフォルニア州のチームと契約を結びました。これらは全て育成世代の選手たちとの仕事になります。その当時はプロフェッショナルなチームを率いる世界で働くなんて考えてもいませんでした。しかし、故郷に戻る前に興味がある話があれば、プロフェショナルなチームを率いてみたいという好奇心は
ありました。
そして、偶然にもある日、ニューヨーク・シティの監督になろうとしていたドメネク・トレントから電話があり、彼のテクニカルスタッフ、アシスタントコーチに誘われました。私は彼に嬉しいし、新たな唯一の体験になるだろう伝えました。ニューヨーク・シティでは、何よりもプロフットボールの組織のあり方を学ぶ2年でした。私は自分のトレーニングの経験をすべて活かしながら、プロフェッショナルの世界ではどのようにチームが組織され、発展し、毎日の生活をいかしてにして過ごしているのかを見ようとしていました。ニューヨークでは、私はほとんど観察者に過ぎませんでしたが、それはとてもすばらしい経験でした。その体験を終えた後、ドメネク・トレントにプロフェッショナルのトップチームの監督としての力と運を試したいという私の野心と熱意を伝えました。また私は、自分のスタイルに最も適した国は日本であり、日本でコーチをすることが目的であることを伝えました。そんな小さなコンタクトからすぐに幸運にもアルビレックス新潟と出会うきっかけを手にし、着任することになり、自分のトレーニング方法、フットボールのプレー方法を展開することができました。
20年以上もベンチで指揮を執っています。フットボールの世界で参考にしたのは誰ですか?
フットボールの世界において、チームとしては当然ながら、80年代のブラジル代表のプレーの美しさに影響を受けました。監督としては、アリゴ・サッキのハイプレスとスペースの縮小という彼の仕事は参考にしました。もちろん、革命家であるヨハン・クライフは大好きでした。彼はボール、そしてポジショニングの重要性など、私たちのフットボールの概念を変えました。そして最後に、私が最も多く接し、そして私のフットボール観に最も影響を与えたのはペップ・グアルディオラとティト・ビラノバです。
日本フットボールの競争力、レベルをどう見ていますか?
日本のフットボールは、まず何よりも自分たちのスタイルや特徴を見出さなければなりません。そこから先は下部組織も含めて取り組みを始めていくことになります。先ほども言いましたが、日本にはコンビネーション、連携プレー、ポジショナルプレーのスタイル最も適していると思います。日本のリーグの競争力、レベルは明らかに上がってきています。それと同時に日本人選手の競争力も少しずつ高くなってきています。それに加えて、多くの日本人選手がすでにヨーロッパで活躍していることも当然ながら日本フットボールの競争力の向上につながっています。もちろん、まだヨーロッパのリーグの競争力からは遠いですが、ヨーロッパ以外では世界ではMLS、メキシコ、日本の3つが最も重要なリーグになります。
イニエスタやビジャといった欧州のスター選手は、Jリーグにとってどのような役割を果たしているのでしょうか。
彼らのような人物は、まずアメリカに渡ったダビド・ビジャ自身のように、アメリカでのフットボールの再興と普及に貢献し、かつ最高レベルの選手であるがゆえにピッチではとても大きなクオリティを与えています。彼らのような選手との契約はフットボールの魅力を引き出すためにも、新たな収益を生み出すためにも、とても重要です。アンドレス・イニエスタはフットボールの世界において、指標であり、日本でも愛されています。彼のフットボールは並外れており、彼らの存在はJリーグに付加価値をもたらします。このような選手たちが日本に来ることに、私たち全ての人がとても喜んでいます。